根岸榮治〜全従業員を引き抜かれて学んだ人財共育経営〜

ねぎしフードサービス

同社は人財共育型企業という理念のもと、働く仲間の幸せを大切にしつつ、お客様に最上のメニューを提供する方針を貫いています。お客様、社員、メニュー、すべてを大切にするスタイルを崩さないため、決して無理な出店をしない経営を心がけています。

そんな同社を創業したのは、根岸榮治(ねぎし・えいじ)氏。福島県いわき市に生まれ、社会人としてのキャリアスタートは東京の百貨店勤務。しかし、家業の時計店が倒産の危機に瀕したのを機に帰郷します。その後、飲食店を起業したのが、根岸氏の飲食業界でのキャリアスタートとなりました。

著書に『日本でいちばん「親切な会社」をつくる---牛たんねぎしの働く仲間の幸せを考える経営』(ダイヤモンド社)があります。

家業の経営難をきっかけに起業

根岸氏は、福島県いわき市の生まれ。実家は時計店で、身近にビジネスがある環境の中で育ちました。

学生時代は起業希望ではなかった

地元の高校を卒業後は、大学進学と同時に上京し、商学部で経済を学びます。ただ商学部を選んだのは、本人曰く「なんとなく」だったそうで、家業を継ぐなどの思いは当時はなかったそうです。

その後、大学の先生に紹介された東京の百貨店へ就職。そこで呉服や自動車の販売に携わりました。

倒産の危機

しかし8年後、実家の時計店が倒産の危機にあると知らされ、実家へ帰ります。そして1970年、立て直しを図るために実家の時計店を閉め、飲食店へ改装。カレー専門店をスタートします。根岸氏が30歳の時のことでした。

飲食店を開店したキッカケ

ちなみに、飲食店を立ち上げたのは、本屋で見つけた「月刊食堂」という雑誌に興味を持ち、そこに掲載されていたセミナーへ参加したのがきっかけだったといいます。その後、何度かセミナーに参加し、そのついでに東京で流行りの店を回って流行を分析。どんな業態が人気なのか分析していました。

そんな中、「月刊食堂」の編集長から「カレーの専門店が流行ってる」との情報を仕入れ、最初の業態としてカレーを選択したそうです。

次々と新業態を展開するも軌道に乗らず

このカレー専門店は成功を収め、月商700〜800万(当時。現在の約10億)まで成長します。その後、カレー専門店の時と同じく「東京で流行している」と感じた業態を次々と出店。札幌ラーメン、イタリアンレストラン、炭火焼きなど、色々な飲食店にチャレンジしました。

ところが、これが実を結びませんでした。

当時、根岸氏は茨城県日立市から宮城県仙台市までを結ぶ250kmのエリアに、こうした流行業態を出店。地方のブームは東京から少し遅れてやって来るため、やがて軌道に乗るだろうと読んでいましたが、しかしそうはいきませんでした。

理由は、カレーと違う業態を展開したためでした。業態が違えば、扱う素材や設備も変わるため、人も材料も何もかも管理できなくなってしまったのです。

そんな状況では商品のクオリティが高まることもなく、オープン直後は良くても、評判を聞きつけた競合店が次々と同業態を出店すると、次々に押し切られて撤退。根岸氏はどうしたらいいのか悩み、経営書や雑誌を読み漁り、ランチェスター戦略や三角商法、ドミナント戦略など、最新の経営論などを貪欲に学んでいきました。

ある日、全従業員が出勤しなかったのを機に、己の経営を改革

しかし、そうした努力も結果に結びつかず、なかなか改善の目処が立ちません。

1970年代。大きな事件が起こる

当時、仙台駅前で繁盛していた大皿料理店で、店長からアルバイトまで全従業員が出勤してこなかったのです。

驚いた根岸氏は、すぐさま対応に奔走。理由はすぐに分かりました。全員が近くに出来た競合の同業態に引き抜かれていたのです。またそのお店を調べてみると、スタッフだけでなく提供しているメニューも店舗の内外装も、すべてが自分の店と一緒でした。

事件をキッカケに経営を改める

この出来事をきっかけに、根岸氏は自身の経営を改めて振り返ります。単に流行の業態を地方に持ってくるだけでは、初速は良くても長くは続かない。流行りものを持ってきて、飽きられたら別の流行りものを探すスタイルではやっていけない。では、永続的に続く店舗を作るにはどうすればいいのか? 根岸氏は、流行に頼るだけではなく、メニューも従業員も磨かなければならないという結論に至ります。

メニュー、従業員を第一に考える

その後、根岸氏は売上だけを追求していた経営姿勢を捨て、メニューも従業員も大切にする方向性へシフト。100年続く企業をめざし、まず業態の見直しから着手します。

そして、流行に関係なく、これから末永く愛される商品として見出したのが、自身が週2回は食べるほど好きだった「牛タン」。これが今に続く「ねぎし」のスタートでした。1981年のことでした。

再起を賭けた「牛タン」で復活、大躍進を遂げる

当時、牛タンは仙台市で人気ではありましたが、全国的な知名度はまだまだ。また男性がお酒と一緒に楽しむものという認知が一般的で、女性客やファミリー層が楽しむグルメではありませんでした。

女性目線を大切に

そこで根岸氏は、女性でも気軽に楽しめるメニューとして牛タンのイメージを刷新すべく、いくつもの工夫を凝らします。たとえば、肉を薄くしたり、とろろと麦めしをセットにしたヘルシーな定食メニューとして提供したりしました。また店舗の内外装も、女性や家族連れでも入りやすいスタイルにし、それまで未開拓だった客層へのアプローチを強化していきました。

仙台では飽和気味の牛タン市場だが、、、

ただ、仙台はすでに牛タン市場が飽和気味。そこで大きな市場が望める、またドミナント経営ができるエリアとして、東京の新宿歌舞伎町に1号店を出しました。

その後、ねぎしは人気を集めて急成長。同店のメニューは、定食として安くはないですが、絶品のお肉は値段以上として好評を博しています。

従業員からも好評の組織

また、かつて失敗してしまったマネジメントの面でも、転職組が「こんなにやりがいのある会社は他にない」と口をそろえるほどの組織となりました。そんな社員の親切心あふれる接客はお客さんからも好評で、同店の一つの魅力となっています。

「めざすは富士山」圧倒的な業界1位をめざし走り続ける

その後、同店は創業40年を超えた今もなお人気飲食ブランドとして輝いています。

圧倒的な1位を目指して日々チャレンジ!

根岸氏は「富士山を、圧倒的な業界1位をめざす」と語っており、飽くなきチャレンジ精神を胸に、牛カルビ「ブラッキー」、四元豚の豚テキ「とんて〜き」など新メニューも次々考案。90年代の牛タンブームに伴う供給不足や、2000年代前半のBSEによる牛肉需要の危機なども乗り越え、変わらぬ絶品の味を提供し続けてきました。

マネジメント面でも、お客様アンケートの評価をベースに社員を表彰する「親切賞」などの斬新な取り組みを実施。毎年2万通ものアンケートハガキが集まっており、お客様に愛されている様子が伝わってきます。

これからもお客さんと従業員を大切にする人財共育型企業として走り続けていくことでしょう。

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